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第70回 東照寺写経の会

4月18日の 「 東照寺写経の会 」
参加者 27名。

冬期間休止し、4か月ぶりです。
そして、 「 東照寺写経の会 」 が10年目を迎えました。当初はこんなに続くとは考えていませんでしたが、参加されるみなさんのおかげです。

さて、今日の法話は、まず最初に昨夜の愛媛・高知の震度6弱の地震。
元旦の能登半島地震、台湾での地震、そのほか日本各地で震度3程度の地震も頻発しています。
本堂に設置している災害募金の協力からとなりました。

また、初めての参加者が複数人いらっしゃったので、「 写経とは? 」 「なんのために書くの?」的なはなしをしました。

本来の写経は印刷技術がなかった時代には、教えを学ぶために自分のものにするには書き写すしかなかった。あるいは、信仰心を形に表す意味合いがあったり、写経の功徳力で願いを叶えたいという思いであったり・・・。

しかし、今、参加されている方々の写経は、あわただしい日常の生活から離れ、いつもの時間の流れを変えて自分を見つめ直す、そんな手段としての意味合いが多くなっているように感じます。
「 なんのために書くの? 」 に明確に答える必要はないのかもしれません。お釈迦様の教えに耳を傾けて、 「 うん 」 と頷き、「 なにかしらいい気分になるような気がする 」 と思えたら、これで十分。そうすれば、自分の周りの景色が変わって受け止められるようになります。

東照寺の写経の会は、上手に描くのが目的ではないんです! 毎日の笑顔が少しでも増えるようになれたなら、それが目的だったんだな~ とあとから考えられるようになれるんだと思います。
そうなってほしいです。
聞いてよかったという法話ができればと思っています。

2024.4.18 写経の会 茶話会
茶話会への参加者も大勢で賑やかでした。
年度初めということで、みなさん自己紹介と近況報告も。

2024.4.18 写経の会 茶話会 差し入れのお菓子たくさん
少し食べてからの写真ですが、それでもたくさん並んでます。
みなさん、お持ち帰りの袋がパンパンに!
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戦没者慰霊法要

東照寺では、昭和30年代から毎年、春彼岸中に 「 戦没者慰霊法要 」 を行っています。
今回は都合により彼岸が終わった翌日の3月24日 (日) に行いました。

今年は終戦の昭和20年から79年になります。
80代半ばを超えた方でなければ戦争を記憶にとどめていないわけです。
参列者の方々も過半数が戦後生まれです。
自分の先祖で戦死した人の関係がわからない人、あるいは、戦争で亡くなった方がいたことすら知らない子孫が出てきているのではないかと思います。
十数年前の東日本大震災ですら、記憶が薄らいでいかぬように語り部に力を入れているとも聞きます。

世界を見渡せばウクライナやイスラエルでの戦火がテレビで伝えられ、痛ましい様子を目の当たりにします。
日本の近くでは、北朝鮮のミサイル発射、中国と台湾の緊張・・・。
自分で何かできるというものではないかもしれませんが、せめて、子や孫など次の世代に80年前に戦争で亡くなった家族がいたことを伝えてほしいと願うところです。

人間は二度死ぬと言ったりしますね。
一度目は心臓が停止した時。二度目は、その人のことを語る人が居なくなった時。
戦争で亡くなられた方を伝えていくことは、その人が生き続け、戦争の悲惨さを教え続けてくれることになるのだと思います。
戦争の悲惨さを学ぶことは、人間としての成長にマイナスになることはないでしょう。

これからも、毎年、この時期に慰霊の法要をしてまいりたいと思います。

2024.3.24 戦没者慰霊法要
遺族代表の 「 追悼の言葉 」
右側の須弥壇に64名の精霊の戒名が書かれた軸を掛けてのご供養です

2024年 東照寺写経の会 日程決まりました

今年で10年目を迎える 『 東照寺写経の会 』 の今年の日程が決まりました。
初めての方も歓迎。一回だけの体験も歓迎です!

≪ こちらのチラシをご覧ください ≫

5月には Yukariさんを招いての
「 クリスタルボウル 」 のサウンドヒーリング体験も企画しています。

≪ Yukariさんのチラシはこちらをご覧ください ≫

どちらも事前申し込みが必要です。
チラシに記載の 「 申込方法 」 宛にご連絡ください。

写経の手本

2023年 成道会 乳粥

お釈迦様のお悟りを開いた日は、12月8日。
東照寺では近い土日を選んで「 成道会 」 を行なっています。
今年は、一日遅れの9日 土曜日。
雪国の冬には珍しく晴天となりました。

今年は、献茶湯 ( けんちゃとう 仏様にお茶と蜜湯とお菓子を捧げる ) の際に、初めて乳粥を供えました。
米を牛乳で炊いたおかゆです。

スジャータという女性が、ニグローダという木に、よき結婚をし、男児を授かれるように祈り、その望みが叶ったお礼に乳粥を供えようと持参したところ、樹下に苦行林から出てやせ細ったお釈迦様がいらっしゃった。
樹木の神と思ったスジャータは、乳粥をお釈迦様に供えるのです。
乳粥をいただいたお釈迦様は、近くを流れているナイランジャナー川で沐浴し、心身共に回復され、菩提樹の下で坐禅を組み12月8日の朝、悟られるのです。

この伝説を受け、乳粥をお供えしました。

法要後に参加者と一緒に食べましたが、好評でした。
「 胡椒をふりかけるとおいしいよ 」 と妻のアドバイス。
試しましたが、なんとなく微妙においしくなったような・・・。

お釈迦様のお悟りに感謝しながら!
「 ごちそうさまでした 」

2023.12.09 成道会 乳粥
おいしかった “ 乳粥 ”

2023.12.09 成道会 御詠歌

2023.12.09 成道会 法話

第69回 東照寺写経の会

12月1日の 「 写経の会 」
参加者 18名。

境内地には10cmほどの積雪。
朝の作務は駐車場の除雪。
今年も、冬の時期の当たり前の除雪の作務が始まろうとしています。

さて、今月の法話は、10・11月とお話した 「 玄奘 ( げんじょう ) 三蔵法師について 」
“ 高昌国王 麴文泰 ( きくぶんたい ) からの支援を受け、キャラバンを組んでの天竺 ( インド ) へ向けての旅が始まる ”
までが、前回。

次回の写経は4月なので 今回は、一気に唐に帰って亡くなるまでの話です!
本当はせめて2回に分けたかったのですが・・・。


次の難関は、天山山脈。
山は険しく、万年雪どころか万年氷の状態。
季節は春とはいえ、時には風雪が吹きすさび、毛皮を重ねても寒さにおののく。
氷を寝床に寝てしまうのみ。
7日間の雪山の旅で凍病死した人が十数人。多くの牛馬が死ぬ。
想像以上に苦しいキャラバンとなった。

西突厥 ( にしとっけつ ) の王、葉護可汗 ( やぶくかかん ) は、高昌国王の紹介状もあり、大歓待。
ここでも天竺に行かずに留まってほしいと懇願される。
この後も行く先々で同じように引き留められる。
玄奘の人格や学識がひときわ素晴らしかったことが伺えるのです。

630年に玄奘が見たバーミヤン大仏は、美しく装飾されて金色に光り輝いていただろう。
僧院には数千人の僧が居住していたという。
残念ながら、2001年にタリバンに大仏は破壊され、石窟内の仏教壁画の8割ほどが失われたと。

カシミールに2年間滞在し、僧称 ( そうしょう ) 法師に 『 倶舎論 』 や 『 声明論 』 等々を学び、途中、各地の名僧から学びながら天竺を目指した。

天竺に入り、お釈迦様の主な聖地を次々と巡礼する。
祇園精舎・カピラ城・クシナガラ ( 入滅の地 ) ・ サルナート ( 初転法輪 ) 等々。
大乗仏教は寺院や遺跡の荒廃が示すような状況にあった。
唐から命がけで歩んできた玄奘の心中を思いやられる。
成道の地である金剛座の荒廃に、玄奘は号哭したという。

そして、一番の目的である 『 ナーランダ僧院 ( 大学 ) 』 へ。
106歳のシーラバドラと会うが、ここに次のような物語がある。

シーラバトラは、20年以上、重症のリューマチスだった。
特に3年前に苦痛激しく死を考えたが、夢に菩薩が現れ 「 唐から仏の教えを学びに来る。指導しなさい 」 と言われ、それ以来、ウソのように痛みが消えた。
シーラバトラが 「 あなたは何年かかってここまで来たのか 」 と尋ね、玄奘が 「 3年を過ぎようとしている 」 と答え、夢と一致したという感動の場面でもある。

5年間の学びの後、インド各地の聖蹟巡遊の大目的を果たして、ナーランダ大学に戻る。
インドでも超一流の学者と認められるも、帰国の念が増してくる。

曲女城 ( きょくじょじょう ) のハルシャヴァルダナ王は、大乗・小乗の僧や、バラモン教や他の教の学者など数千名を集めて18日間の大法論大会を開いた。
主たる僧である玄奘が論じた 『 制悪見論 ( せいあくげんろん ) 』 に異論を述べられる者はなく、称賛を受ける。

その後、多くの人に帰国を引き留められながらも決意強く出立する。

楽であろう海路の旅を断り、厳しい陸路の旅を選んだのは、高昌国王 麴文泰との約束を守るためだった。
しかし、向かう途中、高昌国は唐に滅ぼされ、王も亡くなったと知り感涙し、ルートを最短路のパミールから南道へと変更した。

多くの仏像や経典を運ぶ旅は、往路以上の難行。山越えは、多くの人馬が雪路に悩まされた。

そして、最後の難題!
国禁を犯した犯罪人の玄奘が唐に入国の許可がおりるのか?
皇帝 李世民に文を送り、帰国の勅許を請うた・・・太宗は快く受け入れ一路長安へ。
645年1月、船に沢山の品々を載せて長安をに通ずる運河を急ぎ、玄奘は17年の旅を終えた。
玄奘が持ち帰った舎利150粒、多数の仏像や経典は弘福寺に運ばれたが、652年には、大慈恩寺に玄奘がインド・西域から持参した仏像や経典を収蔵するために大雁塔が建立された。

帰国後、645年6月から数十名の僧らが集まり貝葉の経典を翻訳し始めた。664年2月まで翻訳が続けられ、亡くなる前年の663年10月23日には 『 大般若波羅蜜多経 』 六百巻も完成。
翌664年2月5日遷化。行年63歳。
皇帝は 「 朕は国宝を失った 」 と慟哭したという。


以下、5年ほど前に玄奘三蔵法師のゆかりの地巡礼をした時の写真です。

大慈恩寺 玄奘像
大慈恩寺 玄奘像  後ろが大雁塔


大慈恩寺の門 と 左手奥が大雁塔


以下、7年ほど前にインド聖地巡礼をした時の写真です。

ブッダガヤ 塔
ブッダガヤ

ブッダガヤ

ブッダガヤ 金剛座
ブッダガヤ 金剛座 

サルナート
諸転法輪の地 サルナート

ヴァイシャーリー
お釈迦様が何度も訪れた ヴァイシャーリー 
アショーカ王の石柱が美しく残されている

霊鷲山頂上からの眺め
霊鷲山頂上からの眺め

荼毘塚
お釈迦様を荼毘に付した荼毘塚

クシナガラ
亡くなられた地 クシナガラの涅槃堂から見る眺め
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zenzen1213

Author:zenzen1213

山形県尾花沢市にある
曹洞宗寺院の住職です

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