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第62回 東照寺写経の会

4月24日に行いました東照寺写経の会の参加者は21名。
初めての方が3名いらっしゃいました。
うれしいですね~。

今回の法話は
『 仏遺教経 』 の17回目。
1~3月はお休みなので、4か月ぶりです。
昨年は 「 八大人覚 ( はちだいにんがく )」 の説明を主に行いました。再度、確認の意味で、簡単に振り返りました。
「 八大人覚の8つはなんでしたっけ? 」 との問いかけに、直ぐに 「 少欲 !」 「 知足! 」 と元気な声で答えてくれました。うれしいですね~!

そこで、今回は 『 仏遺教経 』 も残り少なくなってきたわけですが、お経の本文の説明でなく、 “ 四聖諦 ( ししょうたい ) ” とは何かの話をしました。

お釈迦さまが35歳で悟った後、はじめて説かれた教えが 「 四聖諦 」 と 「 八正道 」 なんですね。
四聖諦とは “ 苦集滅道 ( くじゅうめつどう ) ” といいます。
「 諦 」 の字は 「 仕方がないと諦める 」 というように、ネガティブな使い方をしますが、漢字本来の意味は 「 明らかにする 」 ということです。
ですから 「 4つの聖なる真理 」 という意味になります。

私たちは自分の思いどおりにならない、心を満たすことができないことを “ 苦しみ ” と感じます。この苦しみを苦しみと感じられなくなれば “ しあわせ ” になれるという道理をお釈迦様は見つけられたんですね。

集諦 ( 煩悩や渇愛 )によって、苦諦 ( 心をかき乱すこと ) が生じ、
道諦 ( 八正道という道理を理解すること ) によって、滅諦 ( 苦しみを滅する ) という結果を導き出せるということです。

① 苦しみの人生を受けとめ “ 苦諦 ”
② 苦の原因が何であるかを見極めて、その原因がなぜ起こるのかを考えて集め “ 集諦 ”
③ 苦の原因をどうすれば取り除けるかという、取り除く方法、道理を考え、その道理を実践すれば “ 道諦 ”
④ 苦を取り除ける、滅することができる “ 滅諦 ”
ということです。

私たちの病気も同じ流れですよね。
① おなかが痛い。 “ 苦 ”
② 病院で検査したら盲腸だと分かった。 “ 集 ”
③ 手術しましょう。 “ 道 ”
④ 手術のおかげで痛みが無くなった。 “ 滅 ”

お釈迦さまは、人間の苦しみから安らぎへの流れを、 “ 四聖諦 ” 苦集滅道 であると明らかにされたわけです。

お悟り後に最初に説かれた四聖諦を、最後の説法であります仏遺教経の終盤にあたって弟子たちに問いかけています。
今回は、その問いかけの出だしの部分として、四聖諦の意味合いを説明しました。

2023.4.24 写経の会
本日の写経風景です
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第61回 東照寺写経の会

12月1日に行われました写経の会の参加者は16名。
3日に長男の結婚式のため上京し、前後、なにかと慌ただしく、ブログのアップが遅くなりました。

今回の法話は
『 仏遺教経 』 の16回目。
これまで、 「 八大人覚 ( はちだいにんがく )」 という重要な教えを8回にわたってお話してきましたが、それ教えを示されたお釈迦様は、更に、弟子たちに諭されます。

それが “ 不放逸 ( ふほういつ ) ” の教えです。
“ 放逸 ” とは、なまけること。仏道に励まないことです。

汝等 ( なんだち ) 比丘 ( びく )、諸の功徳に於いて、常に当に一心に諸の放逸を捨つること、怨賊 ( おんぞく ) を離るるが如くすべし。

弟子たちよ、様々な功徳のある行いの中において重要なことは、日々の生活の中でいろいろな気の緩みやなまけ心を起こさないように専心することだ。それは、たとえば怨むべき盗賊から逃げるようにしなければならない。

〔 中略 〕

我は良医の病を知って薬を説くが如し、服すと服せざるは医の咎 ( とが ) に非ず。また善く導くものの、人を善道 ( ぜんどう ) に導くが如し。之を聞いて行かざるは、導くものの過 ( とが ) に非ず。

私は、名医が病気の治療方法を知り、適した薬を処方するようなものだ。しかし、薬を飲むかどうかは患者次第であって、医者の責任の範疇ではない。また同じように、指導者が、人としての良き生き方を導いたとしても、それに従わないとすれば、それは指導者の責任ではない。


お釈迦様は 「 八大人覚 」 という重要な内容を伝えた後、改めて、なまけ怠らずにその教えに従うことを促したのです。
そして、あとは、私の責任ではなく、あなた方一人ひとりがこの教えに従っていく、仏道を励んでいくという姿勢が重要だと示したのです。

さて、
 医の咎 ( とが ) に非ず。
 導くものの過 ( とが ) に非ず。
どちらも 「 私 ( お釈迦様 ) の責任じゃないよ 」 という表現ですが、チョット見ると責任逃れや責任転嫁にも見えたりします。
しかし、そうではありません。
良医が良薬を勧めるように、良き師としての教えを説いて勧めることはあっても、決して、押し付けるようなことはないのです。
だから、良薬 ( 良き教え ) を服すかどうかは、それを受けた者の判断に任せるしかなく、あくまで自己責任の下で人生を生きていくことが大原則であることを認識したうえで受け止めなければならないわけです。
それを、あえて示されたのです。

私たちは、自分に都合が悪くなると、その理由を他者に責任転嫁してしまいがちです。
やれ、 「 上司が悪い、世の中が悪い 」 と言い出し、どこまでも自分の非を認めることなく、謙虚に反省することがなかったりしますね。
毎日の生活の中で、自分にとってプラスになるものもあれば、マイナスになるものもあります。
名医のお釈迦様が発する良薬であります 「 仏法 仏の教え 」 、 「 八大人覚 」 は、私たちにとって、確実に人間性がより良い方向に磨かれていくのに間違いないプラスの影響をいただけるものです。
仏の教えに従って生活すれば、直接的に人格が変わってくるのですが、それを自分にとって本当にプラスになると思って実践するかどうかは、自分次第だということに気づかなければならないのです。
「 そんなこと、当たり前じゃないか 」 と片付けずに “ 不放逸 ” の教えにしっかりと頷きたいものです。

2022.12.02 初雪は写経会の日 この写真は翌日の朝です
今年の初雪が、写経の会の12月1日でした。
この写真は、翌朝。 しっかりと雪化粧になりました。

第60回 東照寺写経の会

60回を迎えた昨日の参加者は16名。
今回の法話は
『 仏遺教経 』 の15回目。

「 八大人覚 ( はちだいにんがく ) 」 の第8番目

“ 不戯論 ( ふけろん ) ”  最後の項目です。

汝等 ( なんだち ) 比丘 ( びく ) 、若 ( も ) し、種種 ( しゅじゅ ) の戯論 ( けろん ) は、其の心 則ち乱る。
また、出家すと雖 ( いえど ) も、なお、未だ得脱 ( とくだつ ) せず。
是の故に、比丘 ( びく ) まさに急 ( すみやか ) に乱心戯論を捨離 ( しゃり ) すべし。
若し汝、寂滅の楽を得んと欲せば、唯だまさに善く戯論の患 ( とが ) を滅すべし。
是を不戯論と名づく。

弟子たちよ、様々な無意味な議論は、心が乱れるだけだ。
出家しても、それだけで解脱することはできない。
だから、早く心を乱す無意味な議論は止めなさい。
悟りの境地に達して安心 ( あんじん ) を得たいのであれば、無意味な議論をして、心を乱して悩みわずらうことはするな。
このことを不戯論というのだ。

これが、不戯論の全文ですから、八大人覚の8項目で一番短いですね。
たとえ話もなしです。

「 無意味な議論は心が乱れ、害するだけだ。そんなことはするな。 」 ということだけに見えますが、最後の項目ですし、それだけではないのでは・・・。

八正道 ( はっしょうどう ) の教えのひとつに “ 正見 ( しょうけん ) ” があります。
物事を正しい目で見ること。

私たちは、自分の意見を言う時に、 「 こうすべき 」 「 こうあるべき 」 と論ずるのは、時に、感情論になってしまいがち。浅はかな知識の中で議論をしてしまう。
自分の勝手な基準 ( 世間の基準の場合も有るが ) を作ってしまう。その勝手な基準 “ 物差し ” を捨てないと、すべてが 「 戯論 」 になってしまう。

ひろさちやさんという宗教学者が、よく、この “ 物差し ” という表現をします。
そんな、ひろさちやさんの本に次のような話が書かれていました。

■ユダヤ教の聖職者が弟子たちにこんな問題を出した。
「 2人で煙突掃除が終わり、ひとりは煤だらけ。もうひとりはきれいなまま。
1人だけ体を洗いに行ったが、どちらが行ったのか? 」 という問題。
「 汚れている人 」 と答えると、 「 汚れている人は目の前の汚れていない人を見て自分も汚れていないと思って洗いにはいかないんじゃないか 」
「 汚れていない人 」と答えると、「 汚れていない人は自分の手を見て汚れていないと分かったから洗いにはいかないんじゃないか 」
「 二人とも洗いに行った 」と答えると、
「 いや、違う。 これは問題が間違っていると気づかなければならない。 “ 同じ煙突を掃除して、片方だけが汚れていないなんてことがあるはずない ” と気づかなければならない! 」

問題が間違っているというのが正解だというのです。
まずは、問題が間違っていないかどうかを考えること。それが大事。
私たちは、問題がハッキリしていないような事柄に対して議論していないだろうか。
真実が見えない中で、少ない情報を見聞きして、あちらは誤りだとか、こちらが正しいとか議論をする。
これが、不戯論の極みではないでしょうか。

八大人覚の最後の “ 不戯論 ” の教えは、少欲から智慧までの7つの教えを胸に刻んだ上で、真実を見る目を養い、そのうえで、自分の頭の中の良し悪しなどを区別したくなる “ 分別 ( ふんべつ ) ” から離れた、 “ 無分別 ( むふんべつ ) の智慧 ” を持ちなさいと言われているように感じます。

20221117_144016.jpg
風が強く吹くと杉の葉もこのとおり。

20221117_163435.jpg
きれいに掃き清めました。
昔は、集めた杉の葉を燃やしてサツマイモを焼いて食べたりしたんですが・・・。 (´・_・`)
懐かしいですね~。

第59回 東照寺写経の会

本日の参加者は16名。
今日の法話は
『 仏遺教経 』 の14回目。

「 八大人覚 ( はちだいにんがく )」 の
第7番目 “ 智慧 ” です。

若(も)し智慧あれば則(すなわ)ち貪著(とんじゃく)なし
常に自ら省察して失(しつ)あらしめざれ


もし、智慧あれば貪りと執着はなくなる。
常に自分の心を見つめて過ちがないようにしなさい。

一般的には “ 知恵 ” と書きますが、仏教で “ 智慧 ” と記す場合は “ 仏の智慧 ” であり “ 般若 ” のことです。
“ 智慧 ” を持つということは、頭がいいということではないし、知識を使うことだけでもないのです。智慧があれば、この世の中の真実の相 ( 無常の世 ) を見据えて生きることができるというものです。

仏教とはどういう教えかと問われれば、 「 智慧の教え 」 だとも言えます。
ですから、いろいろな宗派で “ 般若心経 ” がとても重要なお経だと言われるのです。般若 ( 智慧 ) について短い文面で要約された肝なおだからなのです。

智慧と似ている言葉に、 “ 知識 ” があります。
学校で学んだり、家庭や社会、テレビやネットでも色々な情報を知ることができ、この情報を頭に入れたものが “ 知識 ” となります。
ノーベル賞などを受賞した方々は、素晴らしい専門分野の知識人と言えるでしょう。
しかし、この知識というものには際限がない。もう覚えなくてもよいという、終了、完成ということがないのです。
そして、肝心なのは、知識人がイコール人格者とは必ずしも言えない。 「 知識 」 は、いくら増えたとしても、人格・性格は変わらないのです。
しかし、 「 智慧 」 ある人は、直接的に人格が変わります。自己の完成を得ることができるのです。

聞思修 ( もんししゅ ) の慧 ( え ) を以て、而 ( しか ) も自ら増益 ( ぞうやく ) すべし

仏の教えに 「 耳を傾け 」 「 うん。と頷き 」 「 実践していく 」 という智慧を以ち、そしてまた、自らをその智慧による効果を益々増幅させなさい。  と示されています。

仏のすばらしい教えに、耳を傾け、うん と頷き、それを実践し続ければ、心安らかな日々を過ごせることでしょう。
私も努力してまいります。

2022.10.19 東照寺写経の会
ホワイトボードは殴り書き状態ですが、参加者がメモを取ったり、写真を撮ったりする方もいらっしゃるので、板書しながらの法話になっています。

どなたでも参加できる写経会です。
無料です。
今年は、あと2回だけになりました。
興味ある方は、こちらのチラシをご覧ください。
https://blog-imgs-151.fc2.com/t/o/u/tousyouji/S25C-922052412540.jpg

第58回 東照寺写経の会

昨日の写経の会の参加者は18名。

今回の法話は 『 仏遺教経 』 の13回目。

「 八大人覚 ( はちだいにんがく )」 の第6番目
“ 定 ( じょう ) ” です。
禅定、坐禅をして身と心を正しなさいということです。

心 定に在るが故に 能 ( よ ) く 世間生滅の法相 ( ほっそう ) を知る。

身と心を正すことが、物事の真実を知ることができるというのです。
「 真実を知る 」 ってすごいことですよね。

一般的に 「 心身の鍛錬 」 というように、心が先で身が後に書きますが、曹洞宗においては特に、身が先で 「 身心 ( しんじん ) 」 と書きます。

みなさんは、自分の心が体を動かしていると思っているかもしれませんね。歩こうと思って足が前に出る。手を上げようと思うから手を上げる。 そうかもしれません。
しかし、体が心を動かすことがあるということに気づきませんか。
整列の時の 「 気をつけ 」 の掛け声とともに直立不動になりますが、その姿になっていることで気持ちが張りつめた状態でいられる。
正装することで身が引き締まる。
これって、体の状態で心が動かされているとは考えられませんか。
歌人の斎藤茂吉さんの息子さんで精神科医の斎藤茂太さんは 「 おかしいから笑うんじゃない。笑うからおかしくなるんだ。無理してでも笑え。 」 とおっしゃったとか。
精神科のお医者さんに言われると、なるほどと納得しちゃいますね。

道元禅師は “ 身心一如 ( しんじんいちにょ ) ” 身と心は同一であるとおっしゃっています。
自分の心を上手にコントロールできずにいる人は少なくないでしょう。
心を正しく保つには、まず身を正すこと。
お釈迦様も坐禅の大切さを教えてくださっています。

今回の写経の前に2分ほどのイス坐禅を行ないました。
これから、毎回やってみようかなと思っています。

2022.09.08 写仏 文殊菩薩

般若心経の写経を書き上げてから、写仏を行なう方もいます。
文殊菩薩。上手に描いています。
プロフィール

zenzen1213

Author:zenzen1213

山形県尾花沢市にある
曹洞宗寺院の住職です

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