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インド仏跡巡礼報告 4

インド お釈迦様の足跡巡礼。帰国して2カ月を過ぎましたが、まだまだ、報告していないところがあります。

1回目は “ 成道の地 ”  2回目は “ 誕生の地 ”  3回目は “ お釈迦様の愛したヴァイシャリ ” でした。

今日、2月15日はお釈迦様がお亡くなりになられた日ですので、今回は、 “ 涅槃の地 ” 「 クシナガラ 」 を書きます。

「 涅槃 ( ねはん ) 」 とは、私たちは多くの煩悩にまみれた生活をしていますが、その、燃えさかる煩悩の火を消し、そして、慈悲の心ですべてを包み込むという、仏の智慧の完成により得た悟りの境地の状態をいいます。
また、お釈迦様がお亡くなることにより、永遠の涅槃に入られたという考えから、お釈迦様の死のことを “ 涅槃 ” という言葉で表わすのです。
ですから、一般の方の死を涅槃とはいいません。


2月15日でありますお釈迦様のご命日は、各寺院で “ 涅槃会(ねはんえ) ” という法要が執り行われます。
東照寺では、今朝、おまいりをしましたが、檀家さんにも呼び掛けての涅槃会は、一ヶ月遅れの3月15日に毎年行っています。
今年は午後からの予定です。どうぞお参りにおいで下さい。


さて、その “ 涅槃の地 ” 「 クシナガラ 」 へ到着したのは、出発から4日目。
2回目で紹介した “ 生誕の地 ルンビニ ” を参拝した日の夕方でした。

ですから、この日は、朝に誕生の地を参拝し、夕刻に涅槃の地を参拝したのでした。
誕生と涅槃の地は、お釈迦様の聖地の中でも近い所に位置しているのです。
それもそのはず、お釈迦様は死を覚悟し、生まれ故郷に向かって歩みを進める途中で倒れたのですから・・・。

この、涅槃の地 クシナガラに向かう前に、3回目のヴァイシャリにも立ち寄っています。

H27.11.28 クシナガラ 1
涅槃の地への、入り口の門。 奥に涅槃堂が見えます。

H27.11.28 クシナガラ 2
涅槃堂前にて記念撮影。 後ろの建物の中に横たわる涅槃像がおられます。

H27.11.28 クシナガラ 4
涅槃像を前に 『 仏垂般涅槃略説経誡経 』 を読誦しての法要

H27.11.28 クシナガラ 5
頭を北に、右脇を下にして横たわっておられます。

H27.11.28 クシナガラ 3

H27.11.28 クシナガラ 6
涅槃堂の周りには多くの供養塔が立ち並んでいたのでしょう。
壊され、今は、レンガの台座が残るばかりです。


翌日、 “ 荼毘塚 ” を参拝。

「荼毘 ( だび ) 」とは、火葬のことです。
お釈迦様が亡くなられた後、火葬され、遺骨や灰などが10カ所に分けられたそうです。
その後、更に細かくされ、8万箇所といわれるほど膨大な分骨がなされたといわれています。
仏舎強調文利塔というのは、仏であるお釈迦様の舎利 ( お骨 ) を納めている塔のことです。
五重塔などもそういう意味合いがあります。

しかし、お釈迦様の舎利も限界がありますから、本当の舎利ではなく、宝石をお釈迦様の舎利の代替え品として埋葬する場合も少なくありません。

東照寺の本寺であります大石田町黒滝の向川寺様にも仏舎利塔があります。
数十年前に先代のご住職が、スリランカに伝えられた舎利の一部を分骨して頂くご縁があり、現住職の代になり仏舎利塔を建て、現在、まつっています。
その舎利は、米粒大の大きさで数粒だったでしょうか。容器に入っている舎利を拝んだことがあります。

その、お釈迦様の荼毘を行ったところが、この地。
荼毘塚は、涅槃堂から1㎞ほど東にありました。

H27.11.29 荼毘塚 1
参拝の信者(外国の方々)も大勢いらっしゃいました。
丸いドーム型です。合掌しながら一周回っておまいりしていました。

H27.11.29 荼毘塚 2
荼毘塚での法要。

H27.11.29 荼毘塚 3
荼毘にふされた地を前に、参拝せずにはおれませんでした。

H27.11.29 荼毘塚 4
托鉢の僧数名に、同行の参加者も浄財を喜捨していました。
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インド仏跡巡礼報告 3

1回目は “ 成道の地 ” 2回目は “ 誕生の地 ”。

今回は、 “ お釈迦様の愛したヴァイシャリ ” を書きます。

ヴァイシャリというのは、人の名前ではありません。地名です。
インドの都市、パトナーからガンジス河を越えて、北に50数キロのところにあり、お釈迦様が存命の頃は、リッチャヴィ国の首都だったところでした。
ちなみに、その国は、王様のような絶対的な権力者は無く、物事を集会で決める共和国のようだったそうです。


お釈迦様が愛した土地ですから、お釈迦様に関しての話がいろいろあるわけですが、その中で、今回は、ふたつ紹介しましょう。


まずひとつ目は、 “ 猿王奉蜜 ” の話です。
今年は申年ですからね。

お釈迦さまがヴァイシャリで説法をしている時、猿の群れを率いる猿の王様も一緒に聞いていました。
そのお話に感動した猿の王が、マンゴーの木の蜂蜜をお釈迦様に献上しました。
お釈迦様は、それを受け取り、水で薄めて弟子たちと一緒に頂いたという話です。

アショーカ王の石柱(アショーカ王柱については2回目で説明しています)が立てられているところが、その「猿王奉蜜(えんおうほうみつ)の地」でもあり、直ぐそばに、猿たちがお釈迦さまたちのために手で掘ったといわれる池もありました。


寺院向けの月刊誌 『 曹洞宗報 』 の児童向け 冊子『 てらスクール 』 があります。

H28.01.11 てらスクール
たまたま、今月号の表紙がこれ。 “ 猿王奉蜜 ” の場面でした。


この地で、2回目の法要の導師を勤めました。

H27.11.29 ヴァイシャリ 1
アショーカ王柱に向かって

H27.11.29 ヴァイシャリ 2
女性が前に並びました。 ここは女性の記念すべき場所なんです。
左がアショーカ王柱。 高さ約10m。 奥の丸い塔は、“ アーナンダストゥーパ ”
長年、お釈迦様に従った弟子 “ アーナンダ ( 阿難尊者 ) ” を祀る仏塔
東照寺に祀られる “ アーナンダ ( 阿難尊者 ) ” の像は こちらをクリック
アーナンダは、とても二枚目だったそうですよ。

H27.11.29 ヴァイシャリ 4
石柱の頂上はライオン。 石柱が完全な姿で残っているのはとても珍しい。

H27.11.29 ヴァイシャリ 3
猿たちがお釈迦さまたちのために手で掘ったといわれる池。


ふたつ目は、 “ アムラパーリ ” の話です。

アムラパーリは女性の名前。
華麗なダンサーで遊女だったといわれ、お金や土地をたくさん持っていました。
しかし、財産はあっても、身分は低いものでした。

ある時、自分の所有するマンゴー園にお釈迦様がおいでになっていると聞き、急ぎ駆けつけ、説法を聞くのです。
彼女は、大いに喜び、お釈迦さまと多くの弟子たちを、翌日の朝食に招待したいと申し出し、約束をしました。
彼女が帰った後、近隣の身分の高い人たちがお釈迦様を尋ね、同様に朝食を差し上げたいと申し出るのですが、お釈迦様は、先に約束をしたアムラパーリとの約束を守ったのです。

当時の身分制度(現在でもカースト制度は厳しいです)の中では、身分の低い者の約束はキャンセルし、高貴な方を優先するのは当然でした。

しかし、お釈迦様はそうなされなかった。
このことは、身分を問わないということを表わすもので、お釈迦様が示した平等の精神は、先の猿王が蜜を奉じた話にもあるように、人間だけに限らず、生きとし生ける者が全て平等であるという教えなのです。

アムラパーリは、後に自ら出家し、尼僧となるのですが、マンゴー園のほとんどをお釈迦様に寄進します。
大林精舎と呼ばれ、女性を受け入れた初めての僧院なるということでも重要な土地です。



お釈迦様は、35歳で悟られ、80歳まで説法・布教の旅をされましたが、亡くなる数ヶ月前にヴァイシャリに立ち寄られました。
そして、ヴァイシャリを立ち去り、涅槃の地 クシナガラに向かう時、ヴァイシャリの村を振り返り
「 この世は美しい、人生は甘美である 」 と語られたといいます。

お釈迦様の教えの第一は 「 人生は苦である 」 ところから始まるのです。
“ 生老病死 ” の四苦ですね。
苦しみの人生をどうやって耐えればいいのか。
それを考えられ、人々を諭されて来られたお釈迦様が、涅槃の直前に、愛したヴァイシャリの地を眺めて、 「 この世は美しい、人生は甘美である 」 と、つぶやかれたのですから、重いお言葉ですね。

私も、お釈迦様のお言葉の重さは無理でも、最後にそのような言葉を発せられる一生を過ごしたいものです。


ヴァイシャリの地は、僧院に初めて女性を受け入れた土地として、そして、お釈迦様が亡くなった後に、その教えを受け継ぐ僧たちが結集(けつじゅう 教えを確認し合うための集い)をしますが、第2回の結集が行われたところであるなど、お釈迦様を語る上で重要な場所となっています。

インド仏跡巡礼報告 2

前回はお悟りを開いた “ 成道の地 ” を報告しました。

今回は2回目。 “ 誕生の地 ” です。

H27.11.28 ルンビニ園2
このワンちゃんの写真はどこでしょうか。 それは後ほど。


出発から4日目で、やっと聖地参拝です。
ルンビニ園の “ マヤ堂 ” “ アショーカ王柱 ” の2カ所で法要を行いました。

お釈迦様は、お母さんのマヤ夫人がお産のために実家に行く途中、ルンビニの花園で休まれ、かたわらにある無憂樹 ( むゆうじゅ むゆうげ ) の枝に右手を伸ばした時、右脇から生れました。
七歩歩いて、右手で天、左手で地を指さし、「 天上天下唯我独尊 ( てんじょうてんげ ゆいがどくそん ) 」 と発したというのは有名な話です。
また、その時に、天が喜んで甘露の雨を降らせたともあります。
ですから、4月8日の降誕会 ( ごうたんえ ) の時に、可愛らしい誕生仏に甘茶をそそぐのですね。

「 えっ お母さんの右脇から生れて、直ぐに歩いて言葉を発した。さらに、甘い雨まで降ってきたんだって! 
びっくりポンや( NHK朝ドラから頂戴しました m(__)m )」ですよね。
これは、すばらしいお方であるお釈迦様は、生まれながらにして私たちと違うということを誇張して表現したんでしょうね。みなさんおわかりでしょうが・・・。

H27.11.28 ルンビニ園1
バスを降り、 “ リキシャ ” に乗ってルンビニ園へ! 
20年程前には、すぐ近くまでバスで行けたそうです。


ところで、釈迦族の王子様としてお生まれになったお釈迦様ですが、誕生した年は今なお明らかではありません。
インド哲学・仏教思想の権威であった中村元先生の説は、紀元前463年 ~ 紀元前383年とありますが、他にも、紀元前624年に誕生したという説など、諸説あるのです。

生誕の地が、今回訪れたところだと言わるようになったのも、19世紀になってからだそうですから、分からないことがたくさんあり、これからの研究にかかっているのでしょう。
今回巡った聖地でもまだまだ発掘途中といったところが多かったですね。

わからないと言えば、特に西洋の学者においては、 「 お釈迦様自体が実在の人ではないのでは? 」 と疑っていた時代もあったそうです。
しかし、今回訪れた “ マヤ堂 ” の地に、お釈迦様誕生の地である印とされる 「 マーカーストーン 」 が発見されたのです。
それもたった20年前の1995年の調査で・・・。
多くの発見により、お釈迦様が歴史上の人物であったということが世界の学会で認められたわけです。

H27.11.28 マヤ堂
後の建物が “ マヤ堂 ”。 堂内は撮影禁止。
今回の最初の法要は、堂内で。ありがたくも導師をつとめさせていただきました。
マヤ堂は、遺構が風雨にさらされないように蓋うための近代的な建物です。
中は橋のような回廊で渡れるようになっています。

H27.11.28 アショーカ王柱1
続いて、アショーカ王柱の前での法要。

H27.11.28 アショーカ王柱2
石柱に刻まれた文字。わかりますか?
右が先端上部にあった “ 馬 ”。
崩れていて、馬だとはわかりませんでした。


「 マーカーストーン 」が見つかり、マヤ堂の脇にある “ アショーカ王柱 ” に刻まれた碑文の内容と一致したので、それにより確かにこの地が “ お釈迦様誕生の地 ” と決定し、世界遺産にも登録されました。


“ アショーカ王柱 ” というのは、紀元前3世紀頃に初めて全インドを統一したアショーカ王が、主要な地に石柱を40数カ所建てたものを言います。
仏教に帰依し、仏教を守護し、仏の教えを統治の基本とした理想の帝王といわれたそうです。

石柱には、その地の説明文が彫られていて、マヤ堂の脇にあるルンビニの石柱は、先端部分の3分の1が折れていますが、やはり文字が刻まれていました。
「 この地は、お釈迦様がお生まれになったところだから、租税を免じて生産物の8分の1のみ払うものとする。 」といった内容も刻まれているのだそうです。

H27.12.28 ルンビニ園3
さて、最初のワンちゃんの写真はここです。
マヤ堂側から撮りました。
後ろに見えるのが “ 沐浴の池 ”と菩提樹。
お釈迦さまが産湯を浸かったところと言われています。
お釈迦様の生誕の地で子育てしているワンちゃん。
カメラマンのためのサービスポーズのようにも見えました。


お釈迦さまと言えば、インドの方と思われがちですが、生誕の地 “ ルンビニ園 ” は、現在のネパールなんです。

インドからネパールに入るには、もちろん入国ビザが必要でした。
その手続きもそれなりにはかかりましたが、今回入国するのに一番大変だったのが、道路の渋滞。
1ヶ月以上前から、インドからネパールへの物資が規制され、ネパールに向かう貨物トラックが国境から約20km、片側に延々と停車していました。
それでなくても広くない道の左側を貨物トラックが隙間なく連なっているのです。
その脇を走るにしても対向車が来るたびにヒヤヒヤ。

当初予定のニューデリーからゴラクプールまでの飛行機が飛ばず、手前のラクノ―行きの便に変更になったこともあってのことですが、ホテル到着は19時45分。そしてすぐに夕食。
「 随分遅い到着になったな~ 」 などと思っていましたが、インドの旅はこの程度はあたりまえ。
6日目のホテル到着は、22時。それから夕食。風呂に入って明日の準備。そして翌日は、5時起床。
な~んていうのも、6日目ですから、あまり驚きもしませんでしたけどね。

H27.11.28 インド・ネパール国境
ネパールからインドに向かうところ。 
右側にネパールに向かう貨物トラックが連なって停車しているのがわかりますよね。


“ 時計を外せインドの旅 ” だそうです。
なすがまま。自然の流れに随ってという、ゆったりした気持ちがないと駄目なんですね~。


聖地では、どこでも靴を脱がなければなりませんでした。
“ 聖地 ” なんです。 観光地では決してありません。
1回目に報告したマハボディー寺院もそうでしたが、ルンビニでも敷地に入るところで身体チェックがありました。

インド仏跡巡礼報告 1

今日、12月8日は、お釈迦さまがお悟りを開いた日で、各寺では成道会(じょうどうえ)がおこなわれます。
東照寺では、お勤めの方もいらっしゃるため、日曜日の6日に行いました。
法要後の茶話会では、インドのお菓子を食べながら、インド仏跡巡礼の話をしました。


今回のインド仏跡巡礼は、国内宿泊も含め7泊8日の行程でしたが、その様子をブログで少しずつ報告したいと思います。

今日は、第一回目。

巡礼の報告であれば、出発から順を追って説明するのが一般的なのでしょうが、今日がお悟りを開いた日ということで、6日目に行った成道の地 “ マハボディ寺院 ” “ 金剛宝座 ” を紹介しましょう。

“ マハボディ寺院 ”は、 “ 大菩提寺 ” ともいわれます。
「 マハー 」 は 、般若心経の正式なタイトルである “ 摩訶般若波羅蜜多心経 ” の 「 摩訶 」 と同じく 「 偉大な 」 。 「 ボーディー 」 は 「 菩提 」 ということから、“ 大菩提寺 ” と呼ばれるわけですね。

H27.11.30 マハボディ寺院

2002年に世界遺産に登録されました。
マハボディ寺院はミャンマーなどにもあるそうですが、インドのこの寺院をまねて造ったものだそうです。


お釈迦様は、釈迦族の王国の王子として生まれ、なに不自由なく成長しました。
しかし、29歳の時、息子が生まれた後、次期国王の地位を捨てて出家をしたのです。
そして、6年間の修行、苦行難行を行った後に、静かに菩提樹の下で坐禅し、12月8日の朝、お悟りを開かれました。
その時に坐られたところが金剛宝座です。今、菩提樹の下に厳かに、そして、きらびやかにまつられています。
多くの花と赤いご飯が供えられていました。
この菩提樹は、お釈迦様が存命時代の菩提樹の孫に当たる三代目の菩提樹だそうです。

金剛宝座はマハボディ寺院の裏側にあります。しかし、裏にあるという表現は間違いなのでしょう。
金剛宝座の前側にお釈迦様の威徳を表わす寺院である塔を造り、塔の正面から金剛宝座を礼拝しているということになるのでしょう。
現在、塔の中にはお釈迦様の像がまつられていますが、創建当初の紀元前3世紀には、お釈迦様の姿を刻む偶像崇拝は禁じられていたわけですからね。


今回、四大聖地の仏跡巡礼をして来ましたが、建物や供養塔などは壊され、土台しか残っていないという光景が多くありました。
これは、時代と共にヒンズー教が勢力を強め、仏教が迫害されたことにより壊されてしまったわけです。
しかし、このマハボディ寺院は、これまでヒンズー教徒により保護されてきたために、ありがたくも今日見ることができているということになります。


アショカ王の頃 ( 紀元前3世紀 ) に祠堂が建てられ、現在の形になったのは4世紀以降で、高さが約52mだそうです。


H27.11.30 マハボディ寺院 11
床は石が敷き詰められています。
土足厳禁です。真夏の日差しを浴びれば熱くて歩けないのでは・・・。

H27.11.30 マハボディ寺院 10
塔の正面の彫刻。お釈迦さまが刻まれています。

H27.11.30 マハボディ寺院 2
内部中央のお釈迦様。ここでも法要をしました。
ちょうどその時、お袈裟の寄進者がおいでになり、新しいお袈裟に着替えられました。
お袈裟は金色の菩提樹の葉の模様で、特にまばゆいお姿でした。

H27.11.30 マハボディ寺院 6
塔の周りにも多くの花が供えられています。

H27.11.30 マハボディ寺院 3 金剛宝座前にて法要
塔の裏側にある金剛宝座に向かって法要を行いました。
写真正面が金剛宝座。右手が塔。生い茂る木が菩提樹。

H27.11.30 マハボディ寺院 4 金剛宝座
上の(法要中の)写真の正面の金剛宝座の囲いの中。
ここがお釈迦さまが悟りを得た場所である “ 金剛宝座 ” です。

H27.11.30 マハボディ寺院 5
金剛宝座の前には花や鉢に盛られた赤いご飯のようなものが供えられていました。

H27.11.30 マハボディ寺院 8
ムチリンダ竜王池。

H27.11.30 マハボディ寺院 9
暴風雨が吹き付ける中、坐禅瞑想するブッダを守るため、コブラが傘となって守ったそうです。

H27.11.30 マハボディ寺院 7
金剛法座を前にして、ひと時の坐禅。
“ 大聖釈迦牟尼如来成道御和讃 ” の歌詞にあるとおり、 ♪ 菩提の葉風爽やかに・・・ ♫ でした。

H27.11.30 マハボディ寺院 1
帰りに、大塔をバックに妻と。

インド お釈迦様の足跡巡礼 行ってきます!

今週25日から山形県第一宗務所第16教区主催の
“ 仏教の聖地 インド お釈迦様の足跡巡礼 ”  に行ってきます。

2500年ほど前といわれるお釈迦さまが歩まれた足跡を、この度、ありがたくも辿るご縁を頂きました。
誕生 」 「 成道(じょうどう お悟りを開く) 」 「 初転法輪(しょてんぽうりん 初めて仏法を説く) 」 「 入滅(にゅうめつ お亡くなりになる) 」 の四大聖地巡礼です。

慣れていない海外旅行。ましてやインドということで、スーツケースや身の回りの品々をはじめ、心と体の準備にと、何かと慌ただしくなってきました。

25日は成田のホテルに前泊し、26日に渡航。12月2日に成田空港着となる7泊8日の旅ですが、26日はニューデリーに到着し直ぐにホテルへ、12月1日の夜の便での機中泊ですから、インド・ネパールでの巡礼期間は実質6日間ということになります。


15名の巡礼団。夫婦での参加は私たちだけ。
主に和尚さん方ですが、女性も数名参加します。

帰ってきましたらご報告したいと思っていますが、そんな元気があるかがチョット不安でもあります・・・。
報告が遅くなりましたら、「 疲れたんだろうな~ 」 と思ってください。



そんなことで、冬支度も万全に。
今年の11月は初雪の予報すらなく、例年にない温かさですが、車のタイヤも交換しました。
帰ってきたら真っ白ということも考えられますからね。

H27.11.22 イチョウ1
今年もイチョウの実を妻が洗ってくれました。

H27.11.22 イチョウ2
イチョウの葉も枝にほんの少し残るだけです。
プロフィール

zenzen1213

Author:zenzen1213

山形県尾花沢市にある
曹洞宗寺院の住職です

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