地域密着型 特養 むらやま 竣工披露式典
昨日、社会福祉法人 慈敬会の 「地域密着型 特別養護老人ホーム むらやま」 竣工披露式典に出席してきました。
法人の監事をしているものですから。

設置場所は、隣の市の村山市中央二丁目。木造(枠組壁工法耐火建築物)の2階建。
渋谷理事長の挨拶にもありましたが、内装も障子を利用したりということで、和風の家庭の雰囲気を少しでも味わってもらえるように配慮しているのがうかがえました。
渋谷理事長あいさつ
“ 地域密着型 ” の特別養護老人ホームということで、地元の人が住みなれた地域でできるだけ家庭と同じような暮らしができるように支援していくのが目的です。入所定員も29名と小じんまりとしています(国の基準が29床以下と決まっています)。プラス、ショートステイが1床の、計30のベッドがあります。全室個室です。
“ 地域密着型 ” の特別養護老人ホームは、当地の尾花沢市ではまだ作られていませんね。
30室を10室ずつ、3つのユニット(生活単位の小さな社会(家庭)・グループといった感じ)に分かれています。食事などは、ユニットごとに食堂へ集まって賑やかに食べることになります。介護の職員もユニットごとに担当し、親しい関係をつくって寄り添った介護を目指すのだそうです。
私も、市役所に勤めていた時に、介護保険関係を7年間担当しましたので、介護保険制度に関すること、そして、特別養護老人ホームなどの建設にも携わりました。
昨日はたまたま新聞報道で、厚生労働省の発表ですが、特別養護老人ホームの入所待機者は52万人。山形県内は8,358人とのことでした。
52万人というのは、現在の特別養護老人ホームの定員とほぼ同じだというのだから・・・。保育園の待機児童の数字をはるかに超えていますね。
しかし、その内容(状況)もしっかり見ないといけませんが・・・。特別養護老人ホームは比較的安価で利用できるため、別の施設に入っていながら申し込んでいる人や、介護度合いが悪くないのに早めに申し込んでいる人も少なくないのです。
とはいうものの、ベッド数が足りなさ過ぎることは間違いないですね。
やはり、家族(若い人)が居ても家庭での介護は大変というのが本音でしょうから。
ましてや、一人暮らしや老老介護(ろうろうかいご 老人を老人が介護する状況)であればなおさら。
私の父は、介護保険サービスは一切使用せずに倒れて直ぐに入院して病院で亡くなりました。また、母は1年ほどデイサービスや何度かショートステイの利用など、在宅でそれなりの介護保険サービスを利用していましたが、急な病気で病院に一泊しただけで亡くなってしまいました。
できるだけ在宅でとは思っていたのですが、あっけなかったです。でも、ベッドだけの生活でとなった場合、どこまで対応できたか・・・。
団塊世代に代表される年代層(私も含め)が要介護状態となるのもそんなに遠い先のことではありません。急速な超高齢化社会に対応する施設整備や24時間体制の在宅介護・医療のサービスが求められています。
外にも、医療・年金等々という社会保障制度の充実が求められるものの、その莫大な費用を賄う財源確保には、国費の無駄を省くのはもちろんですが、消費税も受け入れることが必要な気がしますね。
4月1日から8%ですね。
5%の内に買いだめをとの駆け込み需要で賑わっています。少しでも家庭の支出を少なくというのもわからなくはありませんね。
今日を含め、あと5日。
無駄なものは買わないように。買いだめしたものが消費期限切れで食べられなくなったらかえって損することになっちゃいますよ~。ご注意ください。
今日はこれで終わりにしようと思ったのですが、以下も書いてみました。
自分の“ ついのすみか ”はどこになるのだろう?などと思ったことはありませんか。
私の場合は、もちろん、最後まで東照寺でとは思っているのですが・・・。
でも、息を引き取るときの場所や状況はどうなんだろうか? などと・・・。
もし、人間は、自分がいつ死ぬかの判断を自分でしなければならないとしたらどんな基準でするのだろう。いつ、どんな時に。
胸のスイッチを自分でOFFにして死を迎えなければならないとしたら・・・。
その判断をする脳が「今、死のう」と判断するまで正常に動いているのだろうか。
などという空想をしてしまいました。
そんなことを今から考えてもどうにもならないですよね。自分の死の瞬間はいつ来るかわかりません。自分勝手にできるものではありません。
そう! それより、「今でしょ~!!」(もう古いですか?)
でも、この「今でしょ~!!」は、道元禅師様もおっしゃっていることなんですよ。
“ 而今(にこん) に生きる”と。
「仏道について学ぶ人は、あとで修行をしょうなどと考えては駄目だ。今日、この時をなんとなく過ごすのではなく、その日、その時を、勤めなさい。」とおっしゃっています。
“ 死 ” は自然に任せるしかない。
その時まで、できるだけしっかりと生きていけるよう。
でも、たまには自分の“ 死 ”の瞬間のことを考えるのも良いことではないかと思っています。
それは、“ 而今に生きる ” を実践するためのひとつの方法としてですよ。
法人の監事をしているものですから。

設置場所は、隣の市の村山市中央二丁目。木造(枠組壁工法耐火建築物)の2階建。
渋谷理事長の挨拶にもありましたが、内装も障子を利用したりということで、和風の家庭の雰囲気を少しでも味わってもらえるように配慮しているのがうかがえました。

“ 地域密着型 ” の特別養護老人ホームということで、地元の人が住みなれた地域でできるだけ家庭と同じような暮らしができるように支援していくのが目的です。入所定員も29名と小じんまりとしています(国の基準が29床以下と決まっています)。プラス、ショートステイが1床の、計30のベッドがあります。全室個室です。
“ 地域密着型 ” の特別養護老人ホームは、当地の尾花沢市ではまだ作られていませんね。
30室を10室ずつ、3つのユニット(生活単位の小さな社会(家庭)・グループといった感じ)に分かれています。食事などは、ユニットごとに食堂へ集まって賑やかに食べることになります。介護の職員もユニットごとに担当し、親しい関係をつくって寄り添った介護を目指すのだそうです。
私も、市役所に勤めていた時に、介護保険関係を7年間担当しましたので、介護保険制度に関すること、そして、特別養護老人ホームなどの建設にも携わりました。
昨日はたまたま新聞報道で、厚生労働省の発表ですが、特別養護老人ホームの入所待機者は52万人。山形県内は8,358人とのことでした。
52万人というのは、現在の特別養護老人ホームの定員とほぼ同じだというのだから・・・。保育園の待機児童の数字をはるかに超えていますね。
しかし、その内容(状況)もしっかり見ないといけませんが・・・。特別養護老人ホームは比較的安価で利用できるため、別の施設に入っていながら申し込んでいる人や、介護度合いが悪くないのに早めに申し込んでいる人も少なくないのです。
とはいうものの、ベッド数が足りなさ過ぎることは間違いないですね。
やはり、家族(若い人)が居ても家庭での介護は大変というのが本音でしょうから。
ましてや、一人暮らしや老老介護(ろうろうかいご 老人を老人が介護する状況)であればなおさら。
私の父は、介護保険サービスは一切使用せずに倒れて直ぐに入院して病院で亡くなりました。また、母は1年ほどデイサービスや何度かショートステイの利用など、在宅でそれなりの介護保険サービスを利用していましたが、急な病気で病院に一泊しただけで亡くなってしまいました。
できるだけ在宅でとは思っていたのですが、あっけなかったです。でも、ベッドだけの生活でとなった場合、どこまで対応できたか・・・。
団塊世代に代表される年代層(私も含め)が要介護状態となるのもそんなに遠い先のことではありません。急速な超高齢化社会に対応する施設整備や24時間体制の在宅介護・医療のサービスが求められています。
外にも、医療・年金等々という社会保障制度の充実が求められるものの、その莫大な費用を賄う財源確保には、国費の無駄を省くのはもちろんですが、消費税も受け入れることが必要な気がしますね。
4月1日から8%ですね。
5%の内に買いだめをとの駆け込み需要で賑わっています。少しでも家庭の支出を少なくというのもわからなくはありませんね。
今日を含め、あと5日。
無駄なものは買わないように。買いだめしたものが消費期限切れで食べられなくなったらかえって損することになっちゃいますよ~。ご注意ください。
今日はこれで終わりにしようと思ったのですが、以下も書いてみました。
自分の“ ついのすみか ”はどこになるのだろう?などと思ったことはありませんか。
私の場合は、もちろん、最後まで東照寺でとは思っているのですが・・・。
でも、息を引き取るときの場所や状況はどうなんだろうか? などと・・・。
もし、人間は、自分がいつ死ぬかの判断を自分でしなければならないとしたらどんな基準でするのだろう。いつ、どんな時に。
胸のスイッチを自分でOFFにして死を迎えなければならないとしたら・・・。
その判断をする脳が「今、死のう」と判断するまで正常に動いているのだろうか。
などという空想をしてしまいました。
そんなことを今から考えてもどうにもならないですよね。自分の死の瞬間はいつ来るかわかりません。自分勝手にできるものではありません。
そう! それより、「今でしょ~!!」(もう古いですか?)
でも、この「今でしょ~!!」は、道元禅師様もおっしゃっていることなんですよ。
“ 而今(にこん) に生きる”と。
「仏道について学ぶ人は、あとで修行をしょうなどと考えては駄目だ。今日、この時をなんとなく過ごすのではなく、その日、その時を、勤めなさい。」とおっしゃっています。
“ 死 ” は自然に任せるしかない。
その時まで、できるだけしっかりと生きていけるよう。
でも、たまには自分の“ 死 ”の瞬間のことを考えるのも良いことではないかと思っています。
それは、“ 而今に生きる ” を実践するためのひとつの方法としてですよ。
スポンサーサイト