令和になって初めての 「 降誕会 」
今日、東照寺では “ 降誕会 ( ごうたんえ ) ” のお参りをしました。
お釈迦様の誕生を祝う法要です。
“ 花まつり ” とか “ 灌仏会 ( かんぶつえ ) ” ともいいますね。

花御堂というお堂の中に、甘茶が入ったタライにお釈迦さま誕生の姿である誕生仏をまつり、ヒシャクで甘茶をかけるのです。
お釈迦さまが誕生した時に、天も喜んで甘い雨を降らせたという話にならっています。
実際にはそんなことはないのでしょうが、喜びの表現として語られているわけです。


本当は4月8日ですが、毎年、休日を選んで行っています。
いつもは御詠歌を習っている方々を主に10名程度はいらっしゃるのですが、新型コロナウイルスの関係で今年は無理しないようにということで…。
それでも3名がおいでになって、私と副住職と家内、計6人で行いました。
法要後、こんな話をしました。
失明した弟子のアヌルッダが 「 私の針に糸を通してもらいたい。糸を通せば幸せが得られるだろう 」 と願ったときに、一番に駆け寄って通してくれたのがお釈迦さまでした。
そしてこんなことをおっしゃった。「 世の中に幸せを求める人は多いけれども、私以上に幸せを望んでいる者はいないだろう 」 と。
この “ 幸せ ” という言葉を聞いたとき、私たち凡夫は、家族がいて 大きな家があり 財産があり、美味しいものを食べ、そして、名誉があり 健康な体があり、そしてそして、それでも足りずに多くの欲を満たすこと、それが “ 幸せ ” の基準と思ってしまってる。
しかし、お釈迦さまはシャカ族の王子様であり、次期、王となられる方で妻や子もいて、傍から見れば何不自由のない “ 幸せ ” が満ち溢れていると思えるわけですが、29歳の時に城を出て難行苦行の世界に出て行かれた。
ですから、お釈迦様の望む “ 幸せ ” とは、私たちの考えているものとはレベルが違っているのですね。
自分が中心の幸せではないということ。他者が喜び、苦しまずに、幸せと感じる姿を見ることがお釈迦さまの “ 幸せ ” ということだったのでしょう。
今、新型コロナウイルスで世界中が右往左往しています。
誰しも感染したくない。もちろんですが、国内に広まり始めた頃に 「 山形県で一番先に感染したくない 」 という会話も聞こえました。今は 「 尾花沢市で一番先に感染したくない 」 ということになるのでしょうか。
「 他者であればいいが、自分が一番先はいやだ 」 「 一番になれば人から白い目で見られる 」 と考えてしまう。
わからなくありません。
でも、この言葉を発するよりも、感染した人への思いやりの心を持つことが望ましい社会なのでしょう。
そのことによって他者が喜ぶ社会、悲しまない社会となり、お釈迦さまの望んでいる “ 幸せ ” に少しでも近づくのではないでしょうか。
感染してしまった方を犯罪者のような、犯人捜しのような扱いだけはしたくないものです。
せめて、その気持ちを持ちたいと思っています。
誰しも感染したくはないのですから。

身に付けているお袈裟は、数年前に家内が古いお袈裟を使って 地蔵袈裟 として縫ったものです。

お釈迦様の誕生を祝う法要です。
“ 花まつり ” とか “ 灌仏会 ( かんぶつえ ) ” ともいいますね。

花御堂というお堂の中に、甘茶が入ったタライにお釈迦さま誕生の姿である誕生仏をまつり、ヒシャクで甘茶をかけるのです。
お釈迦さまが誕生した時に、天も喜んで甘い雨を降らせたという話にならっています。
実際にはそんなことはないのでしょうが、喜びの表現として語られているわけです。


本当は4月8日ですが、毎年、休日を選んで行っています。
いつもは御詠歌を習っている方々を主に10名程度はいらっしゃるのですが、新型コロナウイルスの関係で今年は無理しないようにということで…。
それでも3名がおいでになって、私と副住職と家内、計6人で行いました。
法要後、こんな話をしました。
失明した弟子のアヌルッダが 「 私の針に糸を通してもらいたい。糸を通せば幸せが得られるだろう 」 と願ったときに、一番に駆け寄って通してくれたのがお釈迦さまでした。
そしてこんなことをおっしゃった。「 世の中に幸せを求める人は多いけれども、私以上に幸せを望んでいる者はいないだろう 」 と。
この “ 幸せ ” という言葉を聞いたとき、私たち凡夫は、家族がいて 大きな家があり 財産があり、美味しいものを食べ、そして、名誉があり 健康な体があり、そしてそして、それでも足りずに多くの欲を満たすこと、それが “ 幸せ ” の基準と思ってしまってる。
しかし、お釈迦さまはシャカ族の王子様であり、次期、王となられる方で妻や子もいて、傍から見れば何不自由のない “ 幸せ ” が満ち溢れていると思えるわけですが、29歳の時に城を出て難行苦行の世界に出て行かれた。
ですから、お釈迦様の望む “ 幸せ ” とは、私たちの考えているものとはレベルが違っているのですね。
自分が中心の幸せではないということ。他者が喜び、苦しまずに、幸せと感じる姿を見ることがお釈迦さまの “ 幸せ ” ということだったのでしょう。
今、新型コロナウイルスで世界中が右往左往しています。
誰しも感染したくない。もちろんですが、国内に広まり始めた頃に 「 山形県で一番先に感染したくない 」 という会話も聞こえました。今は 「 尾花沢市で一番先に感染したくない 」 ということになるのでしょうか。
「 他者であればいいが、自分が一番先はいやだ 」 「 一番になれば人から白い目で見られる 」 と考えてしまう。
わからなくありません。
でも、この言葉を発するよりも、感染した人への思いやりの心を持つことが望ましい社会なのでしょう。
そのことによって他者が喜ぶ社会、悲しまない社会となり、お釈迦さまの望んでいる “ 幸せ ” に少しでも近づくのではないでしょうか。
感染してしまった方を犯罪者のような、犯人捜しのような扱いだけはしたくないものです。
せめて、その気持ちを持ちたいと思っています。
誰しも感染したくはないのですから。

身に付けているお袈裟は、数年前に家内が古いお袈裟を使って 地蔵袈裟 として縫ったものです。

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