第60回 東照寺写経の会
60回を迎えた昨日の参加者は16名。
今回の法話は
『 仏遺教経 』 の15回目。
「 八大人覚 ( はちだいにんがく ) 」 の第8番目
“ 不戯論 ( ふけろん ) ” 最後の項目です。
汝等 ( なんだち ) 比丘 ( びく ) 、若 ( も ) し、種種 ( しゅじゅ ) の戯論 ( けろん ) は、其の心 則ち乱る。
また、出家すと雖 ( いえど ) も、なお、未だ得脱 ( とくだつ ) せず。
是の故に、比丘 ( びく ) まさに急 ( すみやか ) に乱心戯論を捨離 ( しゃり ) すべし。
若し汝、寂滅の楽を得んと欲せば、唯だまさに善く戯論の患 ( とが ) を滅すべし。
是を不戯論と名づく。
弟子たちよ、様々な無意味な議論は、心が乱れるだけだ。
出家しても、それだけで解脱することはできない。
だから、早く心を乱す無意味な議論は止めなさい。
悟りの境地に達して安心 ( あんじん ) を得たいのであれば、無意味な議論をして、心を乱して悩みわずらうことはするな。
このことを不戯論というのだ。
これが、不戯論の全文ですから、八大人覚の8項目で一番短いですね。
たとえ話もなしです。
「 無意味な議論は心が乱れ、害するだけだ。そんなことはするな。 」 ということだけに見えますが、最後の項目ですし、それだけではないのでは・・・。
八正道 ( はっしょうどう ) の教えのひとつに “ 正見 ( しょうけん ) ” があります。
物事を正しい目で見ること。
私たちは、自分の意見を言う時に、 「 こうすべき 」 「 こうあるべき 」 と論ずるのは、時に、感情論になってしまいがち。浅はかな知識の中で議論をしてしまう。
自分の勝手な基準 ( 世間の基準の場合も有るが ) を作ってしまう。その勝手な基準 “ 物差し ” を捨てないと、すべてが 「 戯論 」 になってしまう。
ひろさちやさんという宗教学者が、よく、この “ 物差し ” という表現をします。
そんな、ひろさちやさんの本に次のような話が書かれていました。
■ユダヤ教の聖職者が弟子たちにこんな問題を出した。
「 2人で煙突掃除が終わり、ひとりは煤だらけ。もうひとりはきれいなまま。
1人だけ体を洗いに行ったが、どちらが行ったのか? 」 という問題。
「 汚れている人 」 と答えると、 「 汚れている人は目の前の汚れていない人を見て自分も汚れていないと思って洗いにはいかないんじゃないか 」
「 汚れていない人 」と答えると、「 汚れていない人は自分の手を見て汚れていないと分かったから洗いにはいかないんじゃないか 」
「 二人とも洗いに行った 」と答えると、
「 いや、違う。 これは問題が間違っていると気づかなければならない。 “ 同じ煙突を掃除して、片方だけが汚れていないなんてことがあるはずない ” と気づかなければならない! 」
問題が間違っているというのが正解だというのです。
まずは、問題が間違っていないかどうかを考えること。それが大事。
私たちは、問題がハッキリしていないような事柄に対して議論していないだろうか。
真実が見えない中で、少ない情報を見聞きして、あちらは誤りだとか、こちらが正しいとか議論をする。
これが、不戯論の極みではないでしょうか。
八大人覚の最後の “ 不戯論 ” の教えは、少欲から智慧までの7つの教えを胸に刻んだ上で、真実を見る目を養い、そのうえで、自分の頭の中の良し悪しなどを区別したくなる “ 分別 ( ふんべつ ) ” から離れた、 “ 無分別 ( むふんべつ ) の智慧 ” を持ちなさいと言われているように感じます。

風が強く吹くと杉の葉もこのとおり。

きれいに掃き清めました。
昔は、集めた杉の葉を燃やしてサツマイモを焼いて食べたりしたんですが・・・。 (´・_・`)
懐かしいですね~。
今回の法話は
『 仏遺教経 』 の15回目。
「 八大人覚 ( はちだいにんがく ) 」 の第8番目
“ 不戯論 ( ふけろん ) ” 最後の項目です。
汝等 ( なんだち ) 比丘 ( びく ) 、若 ( も ) し、種種 ( しゅじゅ ) の戯論 ( けろん ) は、其の心 則ち乱る。
また、出家すと雖 ( いえど ) も、なお、未だ得脱 ( とくだつ ) せず。
是の故に、比丘 ( びく ) まさに急 ( すみやか ) に乱心戯論を捨離 ( しゃり ) すべし。
若し汝、寂滅の楽を得んと欲せば、唯だまさに善く戯論の患 ( とが ) を滅すべし。
是を不戯論と名づく。
弟子たちよ、様々な無意味な議論は、心が乱れるだけだ。
出家しても、それだけで解脱することはできない。
だから、早く心を乱す無意味な議論は止めなさい。
悟りの境地に達して安心 ( あんじん ) を得たいのであれば、無意味な議論をして、心を乱して悩みわずらうことはするな。
このことを不戯論というのだ。
これが、不戯論の全文ですから、八大人覚の8項目で一番短いですね。
たとえ話もなしです。
「 無意味な議論は心が乱れ、害するだけだ。そんなことはするな。 」 ということだけに見えますが、最後の項目ですし、それだけではないのでは・・・。
八正道 ( はっしょうどう ) の教えのひとつに “ 正見 ( しょうけん ) ” があります。
物事を正しい目で見ること。
私たちは、自分の意見を言う時に、 「 こうすべき 」 「 こうあるべき 」 と論ずるのは、時に、感情論になってしまいがち。浅はかな知識の中で議論をしてしまう。
自分の勝手な基準 ( 世間の基準の場合も有るが ) を作ってしまう。その勝手な基準 “ 物差し ” を捨てないと、すべてが 「 戯論 」 になってしまう。
ひろさちやさんという宗教学者が、よく、この “ 物差し ” という表現をします。
そんな、ひろさちやさんの本に次のような話が書かれていました。
■ユダヤ教の聖職者が弟子たちにこんな問題を出した。
「 2人で煙突掃除が終わり、ひとりは煤だらけ。もうひとりはきれいなまま。
1人だけ体を洗いに行ったが、どちらが行ったのか? 」 という問題。
「 汚れている人 」 と答えると、 「 汚れている人は目の前の汚れていない人を見て自分も汚れていないと思って洗いにはいかないんじゃないか 」
「 汚れていない人 」と答えると、「 汚れていない人は自分の手を見て汚れていないと分かったから洗いにはいかないんじゃないか 」
「 二人とも洗いに行った 」と答えると、
「 いや、違う。 これは問題が間違っていると気づかなければならない。 “ 同じ煙突を掃除して、片方だけが汚れていないなんてことがあるはずない ” と気づかなければならない! 」
問題が間違っているというのが正解だというのです。
まずは、問題が間違っていないかどうかを考えること。それが大事。
私たちは、問題がハッキリしていないような事柄に対して議論していないだろうか。
真実が見えない中で、少ない情報を見聞きして、あちらは誤りだとか、こちらが正しいとか議論をする。
これが、不戯論の極みではないでしょうか。
八大人覚の最後の “ 不戯論 ” の教えは、少欲から智慧までの7つの教えを胸に刻んだ上で、真実を見る目を養い、そのうえで、自分の頭の中の良し悪しなどを区別したくなる “ 分別 ( ふんべつ ) ” から離れた、 “ 無分別 ( むふんべつ ) の智慧 ” を持ちなさいと言われているように感じます。

風が強く吹くと杉の葉もこのとおり。

きれいに掃き清めました。
昔は、集めた杉の葉を燃やしてサツマイモを焼いて食べたりしたんですが・・・。 (´・_・`)
懐かしいですね~。
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