インド仏跡巡礼報告 3
1回目は “ 成道の地 ” 2回目は “ 誕生の地 ”。
今回は、 “ お釈迦様の愛したヴァイシャリ ” を書きます。
ヴァイシャリというのは、人の名前ではありません。地名です。
インドの都市、パトナーからガンジス河を越えて、北に50数キロのところにあり、お釈迦様が存命の頃は、リッチャヴィ国の首都だったところでした。
ちなみに、その国は、王様のような絶対的な権力者は無く、物事を集会で決める共和国のようだったそうです。
お釈迦様が愛した土地ですから、お釈迦様に関しての話がいろいろあるわけですが、その中で、今回は、ふたつ紹介しましょう。
まずひとつ目は、 “ 猿王奉蜜 ” の話です。
今年は申年ですからね。
お釈迦さまがヴァイシャリで説法をしている時、猿の群れを率いる猿の王様も一緒に聞いていました。
そのお話に感動した猿の王が、マンゴーの木の蜂蜜をお釈迦様に献上しました。
お釈迦様は、それを受け取り、水で薄めて弟子たちと一緒に頂いたという話です。
アショーカ王の石柱(アショーカ王柱については2回目で説明しています)が立てられているところが、その「猿王奉蜜(えんおうほうみつ)の地」でもあり、直ぐそばに、猿たちがお釈迦さまたちのために手で掘ったといわれる池もありました。
寺院向けの月刊誌 『 曹洞宗報 』 の児童向け 冊子『 てらスクール 』 があります。

たまたま、今月号の表紙がこれ。 “ 猿王奉蜜 ” の場面でした。
この地で、2回目の法要の導師を勤めました。

アショーカ王柱に向かって

女性が前に並びました。 ここは女性の記念すべき場所なんです。
左がアショーカ王柱。 高さ約10m。 奥の丸い塔は、“ アーナンダストゥーパ ”
長年、お釈迦様に従った弟子 “ アーナンダ ( 阿難尊者 ) ” を祀る仏塔
東照寺に祀られる “ アーナンダ ( 阿難尊者 ) ” の像は こちらをクリック
アーナンダは、とても二枚目だったそうですよ。

石柱の頂上はライオン。 石柱が完全な姿で残っているのはとても珍しい。

猿たちがお釈迦さまたちのために手で掘ったといわれる池。
ふたつ目は、 “ アムラパーリ ” の話です。
アムラパーリは女性の名前。
華麗なダンサーで遊女だったといわれ、お金や土地をたくさん持っていました。
しかし、財産はあっても、身分は低いものでした。
ある時、自分の所有するマンゴー園にお釈迦様がおいでになっていると聞き、急ぎ駆けつけ、説法を聞くのです。
彼女は、大いに喜び、お釈迦さまと多くの弟子たちを、翌日の朝食に招待したいと申し出し、約束をしました。
彼女が帰った後、近隣の身分の高い人たちがお釈迦様を尋ね、同様に朝食を差し上げたいと申し出るのですが、お釈迦様は、先に約束をしたアムラパーリとの約束を守ったのです。
当時の身分制度(現在でもカースト制度は厳しいです)の中では、身分の低い者の約束はキャンセルし、高貴な方を優先するのは当然でした。
しかし、お釈迦様はそうなされなかった。
このことは、身分を問わないということを表わすもので、お釈迦様が示した平等の精神は、先の猿王が蜜を奉じた話にもあるように、人間だけに限らず、生きとし生ける者が全て平等であるという教えなのです。
アムラパーリは、後に自ら出家し、尼僧となるのですが、マンゴー園のほとんどをお釈迦様に寄進します。
大林精舎と呼ばれ、女性を受け入れた初めての僧院なるということでも重要な土地です。
お釈迦様は、35歳で悟られ、80歳まで説法・布教の旅をされましたが、亡くなる数ヶ月前にヴァイシャリに立ち寄られました。
そして、ヴァイシャリを立ち去り、涅槃の地 クシナガラに向かう時、ヴァイシャリの村を振り返り
「 この世は美しい、人生は甘美である 」 と語られたといいます。
お釈迦様の教えの第一は 「 人生は苦である 」 ところから始まるのです。
“ 生老病死 ” の四苦ですね。
苦しみの人生をどうやって耐えればいいのか。
それを考えられ、人々を諭されて来られたお釈迦様が、涅槃の直前に、愛したヴァイシャリの地を眺めて、 「 この世は美しい、人生は甘美である 」 と、つぶやかれたのですから、重いお言葉ですね。
私も、お釈迦様のお言葉の重さは無理でも、最後にそのような言葉を発せられる一生を過ごしたいものです。
ヴァイシャリの地は、僧院に初めて女性を受け入れた土地として、そして、お釈迦様が亡くなった後に、その教えを受け継ぐ僧たちが結集(けつじゅう 教えを確認し合うための集い)をしますが、第2回の結集が行われたところであるなど、お釈迦様を語る上で重要な場所となっています。
今回は、 “ お釈迦様の愛したヴァイシャリ ” を書きます。
ヴァイシャリというのは、人の名前ではありません。地名です。
インドの都市、パトナーからガンジス河を越えて、北に50数キロのところにあり、お釈迦様が存命の頃は、リッチャヴィ国の首都だったところでした。
ちなみに、その国は、王様のような絶対的な権力者は無く、物事を集会で決める共和国のようだったそうです。
お釈迦様が愛した土地ですから、お釈迦様に関しての話がいろいろあるわけですが、その中で、今回は、ふたつ紹介しましょう。
まずひとつ目は、 “ 猿王奉蜜 ” の話です。
今年は申年ですからね。
お釈迦さまがヴァイシャリで説法をしている時、猿の群れを率いる猿の王様も一緒に聞いていました。
そのお話に感動した猿の王が、マンゴーの木の蜂蜜をお釈迦様に献上しました。
お釈迦様は、それを受け取り、水で薄めて弟子たちと一緒に頂いたという話です。
アショーカ王の石柱(アショーカ王柱については2回目で説明しています)が立てられているところが、その「猿王奉蜜(えんおうほうみつ)の地」でもあり、直ぐそばに、猿たちがお釈迦さまたちのために手で掘ったといわれる池もありました。
寺院向けの月刊誌 『 曹洞宗報 』 の児童向け 冊子『 てらスクール 』 があります。

たまたま、今月号の表紙がこれ。 “ 猿王奉蜜 ” の場面でした。
この地で、2回目の法要の導師を勤めました。

アショーカ王柱に向かって

女性が前に並びました。 ここは女性の記念すべき場所なんです。
左がアショーカ王柱。 高さ約10m。 奥の丸い塔は、“ アーナンダストゥーパ ”
長年、お釈迦様に従った弟子 “ アーナンダ ( 阿難尊者 ) ” を祀る仏塔
東照寺に祀られる “ アーナンダ ( 阿難尊者 ) ” の像は こちらをクリック
アーナンダは、とても二枚目だったそうですよ。

石柱の頂上はライオン。 石柱が完全な姿で残っているのはとても珍しい。

猿たちがお釈迦さまたちのために手で掘ったといわれる池。
ふたつ目は、 “ アムラパーリ ” の話です。
アムラパーリは女性の名前。
華麗なダンサーで遊女だったといわれ、お金や土地をたくさん持っていました。
しかし、財産はあっても、身分は低いものでした。
ある時、自分の所有するマンゴー園にお釈迦様がおいでになっていると聞き、急ぎ駆けつけ、説法を聞くのです。
彼女は、大いに喜び、お釈迦さまと多くの弟子たちを、翌日の朝食に招待したいと申し出し、約束をしました。
彼女が帰った後、近隣の身分の高い人たちがお釈迦様を尋ね、同様に朝食を差し上げたいと申し出るのですが、お釈迦様は、先に約束をしたアムラパーリとの約束を守ったのです。
当時の身分制度(現在でもカースト制度は厳しいです)の中では、身分の低い者の約束はキャンセルし、高貴な方を優先するのは当然でした。
しかし、お釈迦様はそうなされなかった。
このことは、身分を問わないということを表わすもので、お釈迦様が示した平等の精神は、先の猿王が蜜を奉じた話にもあるように、人間だけに限らず、生きとし生ける者が全て平等であるという教えなのです。
アムラパーリは、後に自ら出家し、尼僧となるのですが、マンゴー園のほとんどをお釈迦様に寄進します。
大林精舎と呼ばれ、女性を受け入れた初めての僧院なるということでも重要な土地です。
お釈迦様は、35歳で悟られ、80歳まで説法・布教の旅をされましたが、亡くなる数ヶ月前にヴァイシャリに立ち寄られました。
そして、ヴァイシャリを立ち去り、涅槃の地 クシナガラに向かう時、ヴァイシャリの村を振り返り
「 この世は美しい、人生は甘美である 」 と語られたといいます。
お釈迦様の教えの第一は 「 人生は苦である 」 ところから始まるのです。
“ 生老病死 ” の四苦ですね。
苦しみの人生をどうやって耐えればいいのか。
それを考えられ、人々を諭されて来られたお釈迦様が、涅槃の直前に、愛したヴァイシャリの地を眺めて、 「 この世は美しい、人生は甘美である 」 と、つぶやかれたのですから、重いお言葉ですね。
私も、お釈迦様のお言葉の重さは無理でも、最後にそのような言葉を発せられる一生を過ごしたいものです。
ヴァイシャリの地は、僧院に初めて女性を受け入れた土地として、そして、お釈迦様が亡くなった後に、その教えを受け継ぐ僧たちが結集(けつじゅう 教えを確認し合うための集い)をしますが、第2回の結集が行われたところであるなど、お釈迦様を語る上で重要な場所となっています。
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