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2022年 成道会

東照寺では、毎年、12月8日に近い土日を選んで、お釈迦さも悟りを開かれたお祝いの法要 「 成道会 ( じょうどうえ ) 」 を、梅花流御詠歌を習っている講員さん方と行なっています。
本日の参加者は、講員さん9名、住職、副住職、住職の妻の計12名での法要。

お釈迦様は、釈迦族の王子であり、結婚し長男を授かった後、私たちが欲しいと思っている財産や名誉、あらゆるものを捨てて出家します。
そして、6年間の人一倍厳しい難行苦行をなされた後、体を痛めつけて得られるものはないと思い、苦行する仲間たちから 「 脱落者 」 と冷たい視線を浴びながらも山を下りて来るのです。
そして、ナイランジャナー川で沐浴し、菩提樹の下で坐禅を組み、明けの明星をご覧になられお悟りを開かれたのが12月8日なのです。

今までやってきたことを途中でやめるということは、一見、中途半端な行いと見えます。また、自分のこれまでやってきたことを否定することでもあり、決断が鈍ったりもするでしょう。
しかし、今の自分の行っていることが間違っていないのか、よりよい方向はないのかを見つめることがとても大事なことだと思います。
それをお釈迦様が教えてくださっています。

脚下照顧。
自分の今の心の中を、客観的に見る時間を持ちたいものです。

第61回 東照寺写経の会

12月1日に行われました写経の会の参加者は16名。
3日に長男の結婚式のため上京し、前後、なにかと慌ただしく、ブログのアップが遅くなりました。

今回の法話は
『 仏遺教経 』 の16回目。
これまで、 「 八大人覚 ( はちだいにんがく )」 という重要な教えを8回にわたってお話してきましたが、それ教えを示されたお釈迦様は、更に、弟子たちに諭されます。

それが “ 不放逸 ( ふほういつ ) ” の教えです。
“ 放逸 ” とは、なまけること。仏道に励まないことです。

汝等 ( なんだち ) 比丘 ( びく )、諸の功徳に於いて、常に当に一心に諸の放逸を捨つること、怨賊 ( おんぞく ) を離るるが如くすべし。

弟子たちよ、様々な功徳のある行いの中において重要なことは、日々の生活の中でいろいろな気の緩みやなまけ心を起こさないように専心することだ。それは、たとえば怨むべき盗賊から逃げるようにしなければならない。

〔 中略 〕

我は良医の病を知って薬を説くが如し、服すと服せざるは医の咎 ( とが ) に非ず。また善く導くものの、人を善道 ( ぜんどう ) に導くが如し。之を聞いて行かざるは、導くものの過 ( とが ) に非ず。

私は、名医が病気の治療方法を知り、適した薬を処方するようなものだ。しかし、薬を飲むかどうかは患者次第であって、医者の責任の範疇ではない。また同じように、指導者が、人としての良き生き方を導いたとしても、それに従わないとすれば、それは指導者の責任ではない。


お釈迦様は 「 八大人覚 」 という重要な内容を伝えた後、改めて、なまけ怠らずにその教えに従うことを促したのです。
そして、あとは、私の責任ではなく、あなた方一人ひとりがこの教えに従っていく、仏道を励んでいくという姿勢が重要だと示したのです。

さて、
 医の咎 ( とが ) に非ず。
 導くものの過 ( とが ) に非ず。
どちらも 「 私 ( お釈迦様 ) の責任じゃないよ 」 という表現ですが、チョット見ると責任逃れや責任転嫁にも見えたりします。
しかし、そうではありません。
良医が良薬を勧めるように、良き師としての教えを説いて勧めることはあっても、決して、押し付けるようなことはないのです。
だから、良薬 ( 良き教え ) を服すかどうかは、それを受けた者の判断に任せるしかなく、あくまで自己責任の下で人生を生きていくことが大原則であることを認識したうえで受け止めなければならないわけです。
それを、あえて示されたのです。

私たちは、自分に都合が悪くなると、その理由を他者に責任転嫁してしまいがちです。
やれ、 「 上司が悪い、世の中が悪い 」 と言い出し、どこまでも自分の非を認めることなく、謙虚に反省することがなかったりしますね。
毎日の生活の中で、自分にとってプラスになるものもあれば、マイナスになるものもあります。
名医のお釈迦様が発する良薬であります 「 仏法 仏の教え 」 、 「 八大人覚 」 は、私たちにとって、確実に人間性がより良い方向に磨かれていくのに間違いないプラスの影響をいただけるものです。
仏の教えに従って生活すれば、直接的に人格が変わってくるのですが、それを自分にとって本当にプラスになると思って実践するかどうかは、自分次第だということに気づかなければならないのです。
「 そんなこと、当たり前じゃないか 」 と片付けずに “ 不放逸 ” の教えにしっかりと頷きたいものです。

2022.12.02 初雪は写経会の日 この写真は翌日の朝です
今年の初雪が、写経の会の12月1日でした。
この写真は、翌朝。 しっかりと雪化粧になりました。

第60回 東照寺写経の会

60回を迎えた昨日の参加者は16名。
今回の法話は
『 仏遺教経 』 の15回目。

「 八大人覚 ( はちだいにんがく ) 」 の第8番目

“ 不戯論 ( ふけろん ) ”  最後の項目です。

汝等 ( なんだち ) 比丘 ( びく ) 、若 ( も ) し、種種 ( しゅじゅ ) の戯論 ( けろん ) は、其の心 則ち乱る。
また、出家すと雖 ( いえど ) も、なお、未だ得脱 ( とくだつ ) せず。
是の故に、比丘 ( びく ) まさに急 ( すみやか ) に乱心戯論を捨離 ( しゃり ) すべし。
若し汝、寂滅の楽を得んと欲せば、唯だまさに善く戯論の患 ( とが ) を滅すべし。
是を不戯論と名づく。

弟子たちよ、様々な無意味な議論は、心が乱れるだけだ。
出家しても、それだけで解脱することはできない。
だから、早く心を乱す無意味な議論は止めなさい。
悟りの境地に達して安心 ( あんじん ) を得たいのであれば、無意味な議論をして、心を乱して悩みわずらうことはするな。
このことを不戯論というのだ。

これが、不戯論の全文ですから、八大人覚の8項目で一番短いですね。
たとえ話もなしです。

「 無意味な議論は心が乱れ、害するだけだ。そんなことはするな。 」 ということだけに見えますが、最後の項目ですし、それだけではないのでは・・・。

八正道 ( はっしょうどう ) の教えのひとつに “ 正見 ( しょうけん ) ” があります。
物事を正しい目で見ること。

私たちは、自分の意見を言う時に、 「 こうすべき 」 「 こうあるべき 」 と論ずるのは、時に、感情論になってしまいがち。浅はかな知識の中で議論をしてしまう。
自分の勝手な基準 ( 世間の基準の場合も有るが ) を作ってしまう。その勝手な基準 “ 物差し ” を捨てないと、すべてが 「 戯論 」 になってしまう。

ひろさちやさんという宗教学者が、よく、この “ 物差し ” という表現をします。
そんな、ひろさちやさんの本に次のような話が書かれていました。

■ユダヤ教の聖職者が弟子たちにこんな問題を出した。
「 2人で煙突掃除が終わり、ひとりは煤だらけ。もうひとりはきれいなまま。
1人だけ体を洗いに行ったが、どちらが行ったのか? 」 という問題。
「 汚れている人 」 と答えると、 「 汚れている人は目の前の汚れていない人を見て自分も汚れていないと思って洗いにはいかないんじゃないか 」
「 汚れていない人 」と答えると、「 汚れていない人は自分の手を見て汚れていないと分かったから洗いにはいかないんじゃないか 」
「 二人とも洗いに行った 」と答えると、
「 いや、違う。 これは問題が間違っていると気づかなければならない。 “ 同じ煙突を掃除して、片方だけが汚れていないなんてことがあるはずない ” と気づかなければならない! 」

問題が間違っているというのが正解だというのです。
まずは、問題が間違っていないかどうかを考えること。それが大事。
私たちは、問題がハッキリしていないような事柄に対して議論していないだろうか。
真実が見えない中で、少ない情報を見聞きして、あちらは誤りだとか、こちらが正しいとか議論をする。
これが、不戯論の極みではないでしょうか。

八大人覚の最後の “ 不戯論 ” の教えは、少欲から智慧までの7つの教えを胸に刻んだ上で、真実を見る目を養い、そのうえで、自分の頭の中の良し悪しなどを区別したくなる “ 分別 ( ふんべつ ) ” から離れた、 “ 無分別 ( むふんべつ ) の智慧 ” を持ちなさいと言われているように感じます。

20221117_144016.jpg
風が強く吹くと杉の葉もこのとおり。

20221117_163435.jpg
きれいに掃き清めました。
昔は、集めた杉の葉を燃やしてサツマイモを焼いて食べたりしたんですが・・・。 (´・_・`)
懐かしいですね~。

第59回 東照寺写経の会

本日の参加者は16名。
今日の法話は
『 仏遺教経 』 の14回目。

「 八大人覚 ( はちだいにんがく )」 の
第7番目 “ 智慧 ” です。

若(も)し智慧あれば則(すなわ)ち貪著(とんじゃく)なし
常に自ら省察して失(しつ)あらしめざれ


もし、智慧あれば貪りと執着はなくなる。
常に自分の心を見つめて過ちがないようにしなさい。

一般的には “ 知恵 ” と書きますが、仏教で “ 智慧 ” と記す場合は “ 仏の智慧 ” であり “ 般若 ” のことです。
“ 智慧 ” を持つということは、頭がいいということではないし、知識を使うことだけでもないのです。智慧があれば、この世の中の真実の相 ( 無常の世 ) を見据えて生きることができるというものです。

仏教とはどういう教えかと問われれば、 「 智慧の教え 」 だとも言えます。
ですから、いろいろな宗派で “ 般若心経 ” がとても重要なお経だと言われるのです。般若 ( 智慧 ) について短い文面で要約された肝なおだからなのです。

智慧と似ている言葉に、 “ 知識 ” があります。
学校で学んだり、家庭や社会、テレビやネットでも色々な情報を知ることができ、この情報を頭に入れたものが “ 知識 ” となります。
ノーベル賞などを受賞した方々は、素晴らしい専門分野の知識人と言えるでしょう。
しかし、この知識というものには際限がない。もう覚えなくてもよいという、終了、完成ということがないのです。
そして、肝心なのは、知識人がイコール人格者とは必ずしも言えない。 「 知識 」 は、いくら増えたとしても、人格・性格は変わらないのです。
しかし、 「 智慧 」 ある人は、直接的に人格が変わります。自己の完成を得ることができるのです。

聞思修 ( もんししゅ ) の慧 ( え ) を以て、而 ( しか ) も自ら増益 ( ぞうやく ) すべし

仏の教えに 「 耳を傾け 」 「 うん。と頷き 」 「 実践していく 」 という智慧を以ち、そしてまた、自らをその智慧による効果を益々増幅させなさい。  と示されています。

仏のすばらしい教えに、耳を傾け、うん と頷き、それを実践し続ければ、心安らかな日々を過ごせることでしょう。
私も努力してまいります。

2022.10.19 東照寺写経の会
ホワイトボードは殴り書き状態ですが、参加者がメモを取ったり、写真を撮ったりする方もいらっしゃるので、板書しながらの法話になっています。

どなたでも参加できる写経会です。
無料です。
今年は、あと2回だけになりました。
興味ある方は、こちらのチラシをご覧ください。
https://blog-imgs-151.fc2.com/t/o/u/tousyouji/S25C-922052412540.jpg

楽書 2022.09.14

天童市市民プラザの“ 楽書 ” です。

5月以来の楽書の掲載になります。これまでも参加していたのですが、作品の掲載をしていなかったのです。
そんなことで、何回目かもわからなくなったので、その表示はやめることにしました・・・。(・_・;)

さてさて、今回は大筆での作品です。
今まで、ほとんど小筆での作品だけでしたが、どちらかというと小さい文字より好きかな~。とはいうものの、上手には中々書けません。
頭ではここはもっと太くとか、小さくとかわかっていても手が動きません。
毎回、言い訳ばかりですね・・・。

2022.09.14 楽書

今回は “ 香雨 ”
雨が降ると、雨のかおりというよりは雨のにおいという表現の方が合うような、どう表現していいのか文字に表せないのですが、なんとも言えないにおいを感じる時があります。
“ におい ” と表現すると嫌なにおいと受け取られそうですが、そういう意味ではないんですよ。
一般的に 「 いい天気 」 は晴天のことを指しますが、そんなことはないはず。時には 「 雨がいい天気 」 の場合もありますよね。干ばつの時は雨ごいまでしたくなります。
雨天に 「 いいにおい、いい香りだな~ 」 とゆったりとした心持ちで過ごしたいものです。

書の上に置いてあるのは、上が柿、右がカボチャ ( 手芸品です )
プロフィール

zenzen1213

Author:zenzen1213

山形県尾花沢市にある
曹洞宗寺院の住職です

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